禁断の背番号26――千葉ロッテと小川博、ファンナンバー誕生の謎

アカンプロ野球

1.「禁断の26番」という噂

千葉ロッテマリーンズの背番号「26」には、説明されている意味以上のざわつきが、今もまとわりついている。

公式には「ファンは25人のベンチ入りメンバーに続く26人目の選手」。だから26はファンの背番号であり、事実上の永久欠番だ――球団はそう位置づけ、ホームスタジアムには「TEAM26」のロゴが踊り、ファンクラブ名にも採用されている。

しかしロッテファン、とくに長く球団を追ってきた層の間では、もう一つの物語がささやかれ続けてきた。

「本当は、小川博がつけていた番号だから“封印”したんじゃないのか?」

この「禁断の背番号26」の噂は、ロッテの暗黒期と、一人のエース候補の転落、そして「ファンの番号」としての美談が複雑に絡み合うところから生まれている。

2.背番号26と小川博――暗黒期に現れた“看板投手”

小川博がロッテに入団したのは1984年ドラフト2位。甲子園常連の前橋工、東都の青山学院大で鳴らしたスター右腕で、甘いマスクも相まって早くから注目を集めた。

プロでは1985年にデビューし、ロッテ・オリオンズ(のちの千葉ロッテマリーンズ)一筋でプレー。背番号は一貫して「26」。成績だけ見れば通算21勝26敗、防御率4.12、奪三振460。数字だけなら“大エース”とは言いがたい。

それでも小川の名前が強烈に刻まれているのは、1988年シーズンのインパクトだ。

  • 31試合登板(うち先発25)
  • 10勝9敗、防御率3.40
  • 203回2/3イニングで204奪三振(両リーグ最多)

規定投球回以上で、「投球回数<奪三振数」を達成したパ・リーグ初の投手であり、この活躍がのちに「最多奪三振」タイトル創設のきっかけの一つになったとされる。

同年オールスターでは5者連続三振を奪い、川崎球場での伝説的ダブルヘッダー「10.19」では第1試合の先発として近鉄打線の前に立ちはだかった。結果としてチームは最下位に沈みながらも、その剛腕は「暗黒期の数少ない希望」として、ファンの記憶に焼き付くことになる。

3.当時のロッテ――低迷と混迷の中で光る26番

小川が一軍で投げていた1985〜1990年前後のロッテ・オリオンズは、球団史の中でも「長い低迷期」にあたる。

  • 1987年:51勝65敗でBクラス
  • 1988年:54勝74敗2分で最下位(首位と21ゲーム差)
  • 1989年:48勝74敗8分で最下位
  • 1990年:57勝71敗2分でBクラス

主力の世代交代は進まず、観客動員も伸び悩み、かつての1974年日本一の勢いは見る影もない。スタンドは空席が目立ち、川崎球場には「寂しさ」のイメージがまとわりついた。

その中で2ケタ勝利と圧倒的奪三振を叩き出した小川は、チーム事情もあって「期待せざるを得ないエース」「負け続けるチームの看板」として扱われる。だからこそ、背番号26=小川博というイメージは、当時のファンの中で非常に強固なものになった。

だが右肩の故障や成績不振、生活の乱れも重なり、90年代初頭には一線を退き、その後はコーチ・球団職員として裏方に回る。才能と人気を持ちながら、一流エースに登りきれなかった「未完の26番」は、そのまま球団の迷走ぶりとも重なっていった。

4.強盗殺人事件という断絶

そして2004年11月。元エース候補は、一人の女性の命を奪う強盗殺人事件の犯人としてニュースに現れる。

借金に追い詰められていた小川は、勤務先関係者の自宅を訪ね、金を断られたことをきっかけに暴行を加え、現金を奪取。被害者を川に投げ落とし死亡させた罪で逮捕・起訴され、最終的に無期懲役が確定した。

「元ロッテ投手」「元奪三振王」「元コーチ」という肩書きが、連日報道で繰り返される。これは球団とファンにとって、単なる“不祥事”ではなく、過去の希望そのものが裏切られたかのような衝撃だった。

この時点で背番号26は、小川の記憶と事件の記憶とを同時に背負う、扱いの極めて難しい番号になってしまう。

5.2005年、「ファンの背番号」26の誕生

事件の翌年、2005年シーズン。千葉ロッテマリーンズはボビー・バレンタイン監督のもとで快進撃を見せ、31年ぶりの日本一を達成する。

この象徴的なシーズンと前後して、球団は「背番号26はファンの番号とする」と公式に位置づけ、選手には与えない方針を打ち出す。スタンドやベンチには「26」のプレートが掲げられ、ファンクラブは「TEAM26」の名で再編され、26は「常に共に戦うファン」を表すブランドへと生まれ変わった。

ここまでが、球団が語る「ポジティブな物語」としての26番である。

6.噂と事実:「禁断の番号」はこうして生まれた

では、「小川博の事件があったから26を封印した」という噂は、まったくの虚構なのだろうか。

公的な説明としては、あくまで「ファンを称えるための26」であり、球団は小川の名も事件への直接言及も避けている。一方で、長年26番を背負い、かつ深刻な凶悪犯罪を起こした元選手が存在するという事実は消えず、さまざまな解説記事やまとめサイトでは「ファンナンバー化には、その影響を考慮した面もある」との指摘も紹介されている。

つまり、次のような“二重構造”として読む余地が生まれている。

  • 表の理由:26=ベンチ入り選手に続く「ファンの背番号」
  • 裏の文脈:小川博の番号を、別の意味で「上書き」し、選手には戻さない

球団は「封印」とは言わない。だが、誰にも26を付けさせない。その沈黙ぶりが、かえって「禁断の背番号」という物語に説得力を与えてしまう。

7.数字に刻まれた記憶――暗黒史とどう向き合うか

ここで大事なのは、この話を「ネタ」として消費して終わらせないことだ。

  • 26番は、一人の選手の転落と強盗殺人事件という、遺族のいる現実の犯罪と結びついた番号である。
  • 同時に、2005年以降のロッテが「ファンとともにある球団」というイメージを打ち出すために選んだ、再出発の象徴でもある。
  • 球団は“個人の番号”としての26を閉じ、「ファン」という集合の番号に付け替えることで、負の記憶の直視と上書きの、ぎりぎりのバランスを取ろうとしたとも読める。

他球団では、不祥事を起こした選手の番号をあえて別のスターに継がせて意味を塗り替えるケースもあれば、そのまま誰にも与えない“自然消滅”のような扱いをするケースもある。ロッテの26番は、そのどちらでもない。

個人名には触れず、しかし番号は特別扱いする。その結果、「TEAM26」という聞こえのいい公式ストーリーと、「小川の番号だから戻せないのでは」という非公式の噂が、同じ数字の中に同居し続けることになった。

またロッテOBというと、セラフェニ投手も帰国後に犯罪を犯してしまっている。

8.結び――スタンドに掲げられる26を見上げるとき

いま、ZOZOマリンスタジアムのスタンドには、多くの「26」ユニフォームが並ぶ。そこに刻まれているのは選手名ではなく、「TEAM26」という言葉だ。

背番号26は、「禁断の番号」とも、「希望の番号」とも呼べるだろう。

そのどちらの物語も背負っていることを知っていると、試合前に掲げられた26のプレートや、背番号26のユニフォームを纏うファンの姿が、少し違った重みを帯びて見えてくる。

忘れてはいけない事件の記憶と、それでも前を向こうとするクラブとファンの物語。その境界線上に、千葉ロッテの「26」は立ち続けている。

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